私の最初の電話

音ゲ等長文語りしていこう

2022年12月25日の日記

 お久しぶりです。2022年も年末という事で、年を越す前に1本更新しておこうと思います。記事を更新したくなるような出来事があったわけではありません。相も変わらず特筆すべきことのない日々を送っています。この記事も、残念なことにクリスマスイブに書かれています。これを証明するために、記事の随所に2022年12月24日以降にしかわからないようなことを散りばめようとも考えましたが、面倒過ぎるのでやめます。

やさしい世界至上主義

 大学などの学問の場で教員が学生に質問するとき、それは純粋な疑問からくるものなので威圧や叱責などの他意を感じ取らないで欲しい、というような意見をTwitterで見たことがあります。ここから先は完全に私個人の気持ちですが、私にとってこの意見は見当違いもいいところです。

 私は、指導が厳しくて良かったと感じた経験がありません。私に言わせれば、私への指導は優しければ優しいほど良いのです。指導する対象が、一切努力する気がなかったり、反抗的だったりする場合には、優しく接しようとしても無駄だったりする教育の困難があると思います。しかし、冒頭で述べたような学問の場では、学生はある程度やる気のある場合が多いでしょう。そこで、これ以降は一切やる気がないとか反抗的だとかの場合は除いて考えます。また、恩師の厳しい指導のおかげで大いなる成長ができて感謝しているあなたや、厳しい指導により組織に良い影響を与えまくっているあなたはこの話をあざ笑うかもしれませんが、それはそれとしてこの話はあなたには関係ありません。これは私の感覚です。私にとって、厳しい指導は苦痛を生むだけ生んで、優しい指導以上の効果をもたらさない、いわゆる百害あって一利なしのものです。それは何故かと問われても、経験上そうであるとしか言えません。指導の「良さ」は様々な要素を天秤にかけて決まるのであり、私は人々を納得させるに足る統計調査を行ってはいません。なので、これはあくまで私個人の気持ちのうえでの話です。

 では、私の基準によれば、指導する側は具体的には何を心がけるべきなのでしょうか。それは、指導される側の心情を推察し、気分が悪くなるようなことを言わないことです。この一文だけ見れば小学校の先生の説教といったところですが、逆に小学校の先生の説教みたいだからといって唾棄しているのではないでしょうか。ところが私にとっては、「そのような指導は優しい指導だ」、「ところで指導は優しいほど良い」、よって「そのような指導は良い」となります。例えば、Twitterでもよく目にする話で、生徒に数学の指導をしているときに逐一「それはなぜ?」と聞くことについて。数学は論理の積み重ねなのだから、論理の整合性を逐一確認することは数学の営みそのものであり、数学の指導には欠かせないのだ、などと独自の論理を展開するのは結構ですが、私の判断基準ではこれは良い指導とは言えません。なぜなら、その「それはなぜ?」によって気分が悪くなる場合があるからです。

 「それはなぜ?」だけで気分が悪くなるのが理解できない方もいると思うので、ここでこれについて少し述べようと思います。理由を聞かれたときに心理的に苦痛に感じるのはどのような条件が満たされたときでしょうか。いくつかあると思いますが、その条件の中でも重要なのは、それは「理由がやましいことであること」と、「明確な理由が存在しないこと」です。人間関係を語るうえでは「答えるのが面倒なこと」とかもあると思いますが、指導においてはあまり重要ではないと思います。前者の「理由がやましい」場合、理由を聞かれて気分が悪くなるのはわかりやすいと思います。ここで重要なのは、やましい理由があるなら厳しく問いただすべきだという論理は成立しないことです。どのような場合でも、指導は優しい方が良いという命題の真偽は覆りません。むしろ、やましい理由でも寛大な態度で聞き取ることで問題は前向きに進むものと私は思います。なおこれは、指導される側に問題があったとしても指導される側はそれについて責任を負わなくていい、ということを意味しません。優しい指導は責任の所在や改善策を明確にしやすいということです。一方、後者の「明確な理由が存在しない」場合についてですが、Twitterで「それはなぜ?」が話題になるときはこの場合が多いと思います。よく、「『それはなぜ?』と聞いたら『じゃあ(違う解答)!』と返されて頭を抱えた」という話を目にしますし。そういう話をする人は、この明確な理由が存在しない場合を想定していないのではないかと思います。仮に想定していたとしてもですが、生徒が「明確な理由はありません」と言いやすい状況を作っていないのではないでしょうか。指導する側が心の広い人でも、指導される側が「理由なんてないけどそんなの直接言えないわな……」となっていれば気分は悪くなります。

 以上を踏まえ、ただ理由を聞きたいときでも「それはなぜ?」では威圧や叱責に感じ取られてしまいそうなら、いちいち「理由があればでいいですが」や「言える範囲で大丈夫ですが」などと、気分が悪くならないようにするために必要なコーティングを施すのが私にとっての良い指導です。簡単に言ってしまえば、そういう問題点は指導する側が頑張って解決せよということです。不穏な雰囲気の接近を察知して回避する能力が問われますが、頑張りましょう。そんな赤ちゃんの養育みたいなことしてる人見たことないよという方、あなたが先駆者となるのです。

TVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」を見ました

 この文章を書いている今まさにTVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」最終回が終わったところで、興奮冷めやらぬまま書いています。とはいえ、長いことつらつら書くことはしません。ストーリー、映像、演出、音楽、とにかく面白かった!!!!!アニメ放送前に原作読んでなかったことや、音楽を全然嗜んでこなかったことが悔やまれる……!原作も買っちゃいました!これからも応援します!以上!

ご注文はうさぎですか?』2023年1月、2月号掲載分を読みました

 この先、漫画『ご注文はうさぎですか?』のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大変なことになりましたね。巷では、「ごちうさの最終回かその1話手前あたりで発生することではないか」と言われることもありました。しかしそれは突然やってきました。ごちうさを読んで呆然としたのは初めてです。

 私たち読者は、チノさんがラビットハウスを自分なりの喫茶店にしたいという気持ちを抱いているのを目撃しました。数巻前のチノさんではありえなかった状況に思いますが、今となっては納得できますし、ごちうさの世界でゆっくりじっくりと進んでいく人の変化を感じます。そして、このチノさんの変化はある意味でひとつのチェックポイントです。最近はココアさん達の進路選択および高校卒業が近づき、自分自身と向き合うことがよくフィーチャーされるなか、各々がやりたいことは何なのかが語られるようになってきています。そして、彼女たちが形作るセカイはそのやりたいことを認め合い柔軟に変化できるよう進化しつつあると思います。チノさんもこの流れに乗り、自分らしさについて考えることができるようになってきたのかもしれません。チノさんのおじいさんが天国に召されたことは、私たち読者にとってもどうしようもなく悲しいことですが、おじいさんはチノさんについて安心できるところに到達したのであり、私たちは一通り悲しんだらこれまで通り彼女たちの行く先を見守りましょう。

 ごちうさは、「気づいたらこんなところまで来ていた」が数多く現れる作品です。今回の件もそうで、それでもこれまでのお話を追っていると確かにそのような心境の変化が起こるかもしれないなと思わされます。2年目のクリスマスでの七色の魔法使いや、年上4人組の将来の夢、そして旅行編以降のティッピーの振る舞いや言葉、などなど。しかしごちうさでは、何が何につながるかという因果の構造が三段論法のように明確に存在するわけではありません。ごちうさの物語は一本の線のように連なっているのではなく、まず私たち読者の暮らす世界と同じような、3次元空間と(1次元の)時間が存在する時空があって、その一部を切り取って私たちに見せてくれているものと思っています。フィクションはフィクションでも、どこか現実世界に似ている。私はごちうさのこの性質に、親しみのような感情を抱いています。

 ところで、2023年2月号掲載分を読んで気になったのですが、ココアさんは一体何をどこまで知っているのでしょうか。ロゼさんがリゼさんと同一人物であることがバレたときはモデルガンを構えたときに初めて気づいたのであったり、かといってシャロさんが進路をカミングアウトした時に千夜さんとシャロさんの様子がおかしいのには気づいていたりと、何についてどこまで勘がいいのかわかっていないところがあります。チノさんのココアさんに対する想いの強さと、ココアさんが感じているそれにはどれくらい差があるのかは特にずっと気になっています。そして今月号、「よろしく」と言ったのはどういう意味だったのでしょうか。確かに、チノさん以外の人もティッピーにおじいさんが入っていることに実は気づいているのではないかということを考えたことはあります。流石にそれはないかなあと思っていましたが、この発言によりよくわからなくなってきました。またその後の「そばにいるのは変わらないよ」という発言も気になります。普通に考えれば(私たちが)そばにいるのは変わらないということだと思いますし、言いたくないことは言わなくても、それによって私たちがバラバラになることはないと解釈することができます。が、この発言がチノさんのおじいさんのことと重なってしまいます。偶然でしょうか。